株式会社イシワタ、創業の地は、東京都目黒区大岡山、東京工業大学・大岡山キャンパス内の研究室となります。昭和23年頃、東京工業大学では、学内に財団法人「工業振興会」という組織があり、産業の振興・委託研究などの業務を行っていました。当社の創業者である石渡明は、5人のスタッフと共に嘱託として研究室を借り、同大学電気化学助教授、小島武先生のご指導のもと電鋳の研究をスタートしたのです。
当時は、東京全体が焼野原でした。工業薬品1本買うのに1日がかりという状態で、実験につぐ実験の日々を重ね、2年近くの歳月を経てようやく試作品が完成しました。創業者、石渡明は、他の若手起業家たちとともに、電鋳の研究から、量産化、そして法人化へと、現在のイシワタの基盤を作り上げました。
東工大
小島研究室
その頃、大手化粧品メーカー資生堂から、電鋳を使った化粧品容器を作りたい、との依頼がありました。昭和7年、資生堂の最高級品質のブランドとして誕生した『ドルックス』は、銀地に黒の唐草模様の斬新なデザインでした。その後、戦時体制になり製造が中止されていた『ドルックス』が、復活することになり、その容器生産を担当するという、願ってもないチャンスが訪れました。
電鋳の試作品は完成したものの、量産品を如何に効率良く生産するか、またもや苦心の日々が続きます。そこで、10数枚の集合型を作ることを考え、0.25ミリという薄い電鋳の量産化に成功しました。この資生堂『ドルックス』の化粧品容器の受注をきっかけに、いよいよ法人化の運びとなり、「有限会社石渡製作所」が昭和28年9月17日に誕生しました。創業の地は、東京工業大学・大岡山キャンパスでしたが、本社工場として創立した地は、世田谷区玉川等々力町でした。
資生堂ドルックス
その後、化粧品容器の受注は、順調に伸び続けました。昭和30年には、東京都北区滝野川に、本社工場を新設移転しました。
更に、別の化粧品会社からの受注もあり、滝野川だけでは対応しきれなくなりました。
昭和34年に神奈川県藤沢市に工場を借り、生産を開始しました。工場が、東京、藤沢2箇所に分かれている不便さと都内では工場の排水規制が厳しくなり生産の統一化を図る必要が生じました。
昭和45年に取引銀行の紹介で、埼玉県三郷市に土地工場を購入しました。三郷工場は、一級河川の中川に面しています。排水処理設備を完備し、完全に処理管理を行い、工場排水による公害の心配がまったくなくなりました。排水処理への取り組みを評価され、現在でも、三郷市のモデル工場に指定されています。
その後、藤沢工場を閉鎖売却して三郷工場に一本化しすべての業務がスムーズに行われるようになりました。
滝野川工場
藤沢工場
三郷工場
第二次世界大戦敗戦後、焼け野原となった日本の復興を世界に示す晴れの舞台となった東京オリンピックが、昭和39年に開催されました。世界各国から集まった素晴らしいアスリートたちの活躍に日本中が注目していたその時、当社では、オリンピック観戦どころではなく、気がついたら年末を迎えていた、という表現がぴったりな、目が回るほど忙しい日々を送っていました。その忙しい理由というのが、ここでご紹介する掛け鏡だったのです。
当時、訪問販売を中心に展開していたポーラ化粧品が、年間を通してご購入いただいた顧客への記念品として、高級感のある掛け鏡を製作することになりました。デザインは2タイプで、それぞれの大きさが35センチ前後もある大型の電鋳製品を、合計55,000個製造しました。
株式会社ポーラのご好意で寄贈していただいた資料がありますので、その完成度の高さをご覧下さい。
ポーラ掛け鏡
一方、資生堂の化粧品容器の生産は、『ドルックス』シリーズの口紅、粉白粉などからスタートし、提携サロンの看板、各種記念品などに発展しました。その中でも象徴的な製品が、ここでご紹介する銀製コンパクトです。
資生堂が、昭和47年、創業100周年を迎えた際、花椿会会員への記念品として約7万個、その他にプロパーの銀のコンパクトが約3万個、合わせて10万個の銀電鋳が納入されました。
資生堂銀製コンパクト
資生堂創業100年・花椿会の記念品として約10万個の銀電鋳コンパクトを納入するという大仕事が終わった折も折り、オイルショックが起こりました。
電鋳の販売先の再開発に苦労しましたが、1970年代後半のボーリングやゴルフブームでトーナメントや月例会が日本各地で開催された影響を受け、当社の主要品目は、賞杯記念品へと変遷していきます。
昭和52年、石渡明社長(当時)が、工業視察団の一員として、アメリカ・カナダを旅した際に配布した、電鋳ネームプレートのサンプルが、素晴らしいパートナーと巡り合うきっかけとなりました。
電鋳によるネームプレートのサンプルは、米国ペンシルバニア州フィラデルフィアに会社を構える「ラフランス社」の創業者、ジョセフ・A・テティ・ジュニア氏の手に渡りました。テティ氏より「電鋳のネームプレートに興味があるので、イシワタを訪問したい。」というご連絡をいただいた時の驚きは、今でも決して忘れることは出来ません。その後何度となく、お互いに行き来をし、ミーティングを重ね、昭和59年に取引が始まり、すでに30年以上が経過しています。
ラフランス訪問
工場視察団
主要品目の変化に伴い、取引先も変わり、台東区を中心とした営業活動の必要が出てきました。当初は、本社工場として三郷工場を新設しましたが、昭和57年、台東区北上野に本社を移転しました。台東区北上野に本社機能を移した翌年の昭和58年、三郷工場を改築することになり、現工場が完成しました。
賞杯記念品と並び、海外向けのお土産の品としての彫金絵皿もこの時期の主流製品といえます。陶器のお皿の中央に日本的な図柄の電鋳製品をあしらった「Art Of Chokin」は、当時のイシワタのヒット商品となりました。
本社
三郷工場
電鋳は、表面精度の高い金属製品の製造方法として高い評価を受けています。言い方を変えますと、「まず、原型ありき」。素晴らしい原型があって、初めて電鋳が評価されるということになります。そういったこともあり、当社は、創業当初から様々な分野で活躍なさる作家の先生方との交流がありました。
最も深いかかわりを持っていたのが、平成14年9月10日、87歳で亡くなられた文化勲章受賞者 帖佐美行先生でした。「電鋳は、作家の魂までも写し取ってしまう。」と表現された帖佐先生のお言葉は、電鋳に対する最大の賛辞と、有難く感じております。
長年にわたる帖佐先生との交流の中で、一番の思い出は、昭和63年にオーストラリア・メルボルンで日本の工芸を紹介した「冠コレクション」に他なりません。昭和63年は、オーストラリア建国200年にあたる年でした。一方、先ほどご紹介致しました、帖佐美行先生率いる「日本新工芸家連盟」は、創設10周年という節目の年でもありました。
この2点が結びつき、『「オーストラリア建国200年」記念、及び、「日本新工芸家連盟創設10周年」記念冠コレクション』が開催の運びとなったのです。この展覧会の仕掛人は、石渡明、節子夫妻でありました。その前年に、オーストラリアの地に旅行したのをきっかけに、148点にのぼる作品が太平洋を渡りました。
卓越した日本の工芸が、オーストラリア・メルボルン市郊外にあるコーフィールド市アート・コンプレックスで紹介されました。会期は、3週間にわたり、政府関係者をはじめ、TV・ラジオ・新聞・雑誌など報道関係者の盛大な歓迎を受けました。芳名簿に記帳された方のみで、およそ4,500人あまりの来場者を迎え、大成功を収めたのです。
帖佐美行先生の原型製作のもと、生産された製品は、数多く存在します。毎年、開催される「フジサンケイクラシック」の優勝者に贈られる優勝大盃は、双頭の鷲をモチーフにした力強い電鋳作品です。電鋳の特徴のひとつに、鋳物など、他の金属製造方法と比べると軽量に仕上がるという点も見逃してはならないでしょう。
冠コレクション
イシワタの歴史の中でひとつの柱としてジュエリー部門が躍動していた時期についてもご紹介しましょう。
東急百貨店本店・宝石サロン銀座松屋アクセサリー売場でコーナー展開。その後、平成3年、高輪プリンツヒエンガルテン内に直営店「ジュエリー ストーン・マジック」オープンをきっかけに、売場は横浜高島屋、新宿高島屋、丸井各店などへと広がります。女性誌を中心に、各種雑誌への掲載は、400誌を越えます。
その代表的なジュエリーが「メイクアウィッシュ」です。平成7年1995年、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件といった出来事が起きたこの年を忘れないために、プラチナギルドと共同開発のもと、天使をモチーフに年号を刻んだ純プラチナ製、イヤーメダルペンダントが完成しました。このペンダントは、その年を象徴する思い出のジュエリーとして多くの雑誌で取り上げられ、平均価格3万円を超えるジュエリーを2000個以上販売しました。
ストーン・マジック
Make A Wish
バブル景気に陰りが見え始めた1990年代前半、海外投資や輸入が収縮する一方で輸出は依然強く、円高が進行し、1994年に、はじめて1ドル=100円の大台を突破、1995年4月19日の午前9時過ぎには79円75銭と、瞬間1ドル=80円割れの史上、最高値(さいたかね)を記録しました。
電鋳ネームプレート部門が堅調な伸びをみせていたラフランス社にとって、円高は大きな打撃となりました。取引見直しの話し合いをした結果、平成8年、中国広東省・深センに、ラフランス社・イシワタと香港のチズウィック社、3社合弁によるネームプレートの仕上工場「ライコ社」設立の運びとなりました。
このことにより、仕上にかかるコスト削減に成功し、ラフランス社の売上は、前年比増を繰り返します。
ラフランス社からのオーダーによるネームプレートは、世界的ブランドの顔として現在も採用され続けています。
電鋳のネームプレートを他の製法によるネームプレートと比較した際、ラフランス社創業者のテティ氏はこんな表現をされました。「様々なネームプレートを比べた場合、電鋳はまるでジュエリーのようだ。それほどグレードの高い製品が出来る技術だ。」残念ながら、テティ氏は、平成14年5月25日に他界されましたが、テティ氏と知り合えたこと、そして、ラフランス社と取引が出来たことは、当社にとって、何ものにも替え難い、大切な財産といえます。
ラフランス社
2003年9月17日、イシワタは創立50周年を迎え、東京プリンスホテルに於いて、ラフランス社を含むお得意先、お取引先、社員が一堂に会し、記念祝賀会を開催しました。
来賓の方々からの有難いお言葉、心に響くヴァイオリンとハープの演奏、料理長によるこの日のための特別料理とともに、イシワタの50年の歴史を綴ったスライドショーを映しました。そのどれもが印象深く、忘れ得ぬひと時として、今も鮮やかに記憶に残っています。
すべての催しを終えたあと、ラフランス社社長夫妻も交え、記念写真を撮影しました。この写真では、元気な笑顔を見せている石渡節子専務ですが、残念ながら、平成18年5月1日に亡くなりました。創業者である会長を、常に支え続けた節子専務の存在なくしては、現在のイシワタはなかったといっても過言ではありません。
モトローラ、ナイキ、テーラーメイドといった世界に名立たるブランドのロゴを配したネームプレートを次々に受注するラフランス社は、独自のマーケティング手法を作り上げました。イシワタは、それを見習い、直接、指導を受け、日本国内での直販を目指した社内プロジェクト『JITプロジェクト』の取り組みを開始しました。平成18年のことでした。
北米とは違い、日本国内での直販は難しく、試行錯誤を繰り返していますが、成果が上がったところもあります。ヨネックスとはいい関係を構築でき、男子プロゴルファー・石川遼モデルにも採用されました。
JITプロジェクト
ヨネックス
ピーク時には総売上の50%を超えたラフランス社ですが、平成20年9月のリーマンショックを機に様相は一変します。これはイシワタの3回目の大きな転機となりました。
そんな中、始まった『花椿鏡プロジェクト』。資生堂の販促品として電鋳製品に再びスポットライトが当たったのです。
平成21年11月27日のキックオフパーティに始まり、平成22年5月14日の打ち上げパーティで締め括るまで、Z旗を掲げ(かかげ)、【総動員】でこの大仕事に取り組んだのです。外注先で銀メッキをした過去の苦い経験から、外注先に頼らず、銀メッキ工程をすべて社内で対応できたことは、この仕事を成功に導いた大きな要因といえます。資生堂・各化粧品売場の店頭では、花椿クラブ会員のお客様の間で、「花椿鏡」に対する評判は、ことの外高かったのです。
その証(あかし)として、当初の受注数52万個を遥かに越え、最終的に72万個に及びました。このことは、電鋳ならではの表面精度の高さ、繊細さが、花椿クラブ会員のお客様に支持された結果といえるでしょう。今までに培った技術があったから、他社ではできないことをやり遂げることができたのです。
「花椿鏡」の生産終了後、イシワタでは、本格的に企業変革に取り組み始めます。
日本に存在する企業の中で、60年続く企業は全体の4.4%といわれています。イシワタは、既に60年続いている企業ですが、これから100年続く企業となるための条件を5つ設定しました。
<100年続く企業実現のための5つの条件>
1. 利益の確保
2. コスト削減
3. 責任感を持つ
4. 体制の見直し
5. 教育プログラム
この5つの条件を明確にし、実現させるためのプロジェクト『N100プロジェクト』を2010年7月に発足し、現在もコアメンバーによる勉強会を重ねています。
N100プロジェクトのもと、社内では、様々なことに取り組んでいます。そこで作り上げた考え方や行動基準は、今後もイシワタの揺るぎない根幹となることを願い、「イシワタ・スタンダード」として、ファイルを作成し、2010年以来、毎年、最新版を社員全員に配布しており、現在は、Vol.5が配られています。
Ishiwata Standard
N100
花椿鏡
N100プロジェクトが、社内の体制の見直しに重点をおいたプロジェクトとすると、社外へブランドとして「電鋳のイシワタ」をアピールするため、展示会へ出展を展開し始めたのがこの頃からとなります。
創業以来、受注生産が主流でしたので、直接、電鋳の素晴らしさをもっと知ってもらいたいと考え、展示会への出展を始めました。なにか目を引くものをつくりたいと社内で検討を重ね、できあがったのが、電鋳製のジーンズです。デニムの質感がそのまま金属に転写され、展示会で大注目を浴びました。
しかし、残念ながら、初めて展示会へ出展した直後、これから活動をスタートしよう、という矢先に東日本大震災が起こり、活動は一旦、停止となりました。
対外的な活動がままならないこの時期、どうしても気持ちが暗く、後ろ向きになりがちな雰囲気を一掃するため、N100プロジェクトの一環として、「個が輝き、響き合っているチーム」を目指した取り組み、『わくわくチーム会議』を毎週1回就業後の1時間半開催しました。やることは話し合い。会話→対話→議論→省察という4つのステップを通して、話し合いを深めて行きます。
この活動は、意識変革のひとつのきっかけとなりました。
毎日、顔を合わせていても、案外、お互いに知らなかったこと、考え方、世界感といったものを理解し合うことにより、目指す方向を再確認する場となりました。
わくわくチーム会議
わくわくロゴ
わくわく寄書
EF JEANS
2011年2月三菱東京UFJ銀行主催「商売繁盛」
震災後、停滞していた日本国内の経済活動に変化が見え始め、再び、展示会への出展を再開し始めました。
まずは、「電鋳のイシワタ」のブランド化、電鋳という技術を、イシワタという会社名を知ってもらうことが最優先課題。それを強力に後押ししてくれたのが、2012年12月3日に発行された「商店建築12月号」への雑誌掲載記事でした。「仕上げの美学」というコーナーで、イシワタで制作した壁面装飾としての電鋳製品が紹介されたのです。
その年の10月3日にリニューアルオープンした東京駅丸の内駅舎―この歴史的価値がある駅舎に併設されている東京ステーションホテル地下1階「丸の内一丁目 しち十二候」鉄板焼コーナー上部に麻布地から転写した電鋳が一面に使われている写真が大きく掲載されました。鉄板焼コーナーということで、油や熱による経年変化が心配される状態であるにもかかわらず、美しさを保っているだけではなく、メインテナンスも楽だという使用結果も出ています。
この記事をフィーチャーしながら、各展示会への出展を繰り返しました。
2013年2月東京都民銀行主催
「ECO STYLE展」
2013年「産業交流展」
「商店建築」掲載
N100プロジェクトの一環として、企業改革への取り組みを本格的に開始、2013年4月に組織変革を実施しました。従来は部長がいて、課長がいてという縦割り組織になっていましたが、機能別グループ制にして、そのリーダーには30代・40代の中堅を登用しました。
リーダーの上には工場次長と工場長しかいません。その結果、上からの指示待ちではなく、お互いに連絡を取り合い、新しい取り組みの対応や、起きた問題を自ら解決しようと動くようになりました。
会社が新しい体制に生まれ変わった折も折、創業者である石渡明会長が、体調を崩し、入院。その84日後である7月31日に94歳で亡くなりました。石渡明会長は、終戦を台湾で迎え、復員後、20代半ばで電鋳と出会い、研究を始めました。そして、昭和28年に事業化して以来、様々な成功や困難を乗り越えて、現在まで続く、このイシワタを育んでくれたのです。
奇(く)しくも会長の四十九日(しじゅうくにち)である9月17日は、イシワタの創立60周年記念日と重なりました。その際、葬儀参列者への返礼の品として作られたのが、自身の書による電鋳額「夢」となります。会長が生前、したためた書をもとに、すべての工程を社内で行い、額装し、完成させることができました。この「夢額」が完成したことを、会長もきっと喜んでくれているに、違いありません。
その後も展示会への出展を続けていく内に、電鋳のテクスチャーを活かした地紋シリーズへの問い合わせが多くなって行き、この分野への可能性に手ごたえを感じ始め、それは確認へと近づいて来ました。
それに合わせ、電鋳を使った製品(ネームプレート、兜飾り、額)を中心に飾る方法から電鋳地紋を敷き詰めた面で見せる展示へと変わっていきます。
その中には、2014年11月に行われた「BAMBOO EXPO 6」に於ける、Makers Revolutionの「アルゴリズム」をテーマとした壁面装飾といった斬新なデザインも登場しました。
2014年10月「江戸・TOKYO
技とテクノの融合展」
2014年11月「産業交流展」
BAMBOO EXPO 6
石渡明会長
夢額
数々の展示会での来場者との意見交換を通して得た手応え、そして、実際に歴史的建造物に採用されたことを通して得た自信から、イシワタでは、今後、建材をネームプレート、兜飾りに続く第三の柱とするべく注力していく方針を打ち出しています。
それは、電鋳の持つ特性:
1. 世界最高の表面精度を誇る技術であること
2. 金属の製法としては軽く仕上がる技術であること
3. 仕上げによって、様々な表現を施せる技術であること
を活かしつつ、更に発展させる可能性を秘めている分野として建材としての電鋳に取り組むことにより、「100年続く企業」を目指していく所存です。
建材展
建材としての電鋳